日本最古の官道
竹内(たけのうち)街道は、推古天皇の時代に整備された大道(だいどう)とほぼ重なります。堺の大小路(おおしょうじ)から奈良県側の長尾神社までの区間(約26㎞)を指し、瀬戸内海を経由して難波津(なにわづ)に上陸した大陸の使節は、大小路を出発し竹内峠を越え飛鳥京や藤原京へと入りました。逆に遣隋使もこの道を通って旅立ちました。次の略図に示すように藤原京の内裏は横大路(よこおおじ)、下ッ道、中ッ道を基準線として造営され、さらには下ッ道の延長線が平城京の朱雀大路にあたります。その横大路と直結する道が竹内街道です。今回は大小路から竹内街道の終点である長尾神社を経て、藤原宮跡まで足を延ばしてご紹介したいと思います。尚、古墳名等は一般的な名称を使用しています。


前方が紀州街道和歌山方面。左折すると西高野街道を経て竹内街道。
堺から羽曳野へ

大小路から西高野街道を2㎞ほど歩くと竹内街道との分岐点があります

街道沿いには大型のものだけでも、西から仁徳陵、仲哀陵、白鳥陵、応神陵などが点在しています。白い球体は観光気球です。

平安時代に高野山詣でが盛んになり、多くの人が西高野街道を行きかいました。13の道標がすべて現存しています。

安政4年(1857)3月建立

竹内街道は太子町に入るまではずっと住宅街の中です。特に古い建物があるわけではなく、目印は「竹内街道」の貼り看板と「緑の一里塚」だけです。

竹内街道(大道)は古代には24m幅で整備された立派な道でした

2013年の竹内街道敷設1400年記念事業で設けられたもので古いものではありません

平安時代初期からあった神社。一条天皇の命により日本画の始祖、巨勢金岡を祭ったことから金岡神社と称するようになったそうです。

付近には、18代反正天皇が5世紀前半に築いた丹比柴宮(たじひしばがきのみや)があったとされます


前の紹介文にあった中高野街道と竹内街道(丹比道とも呼ばれる)の交差点に建つ道標
羽曳野から長尾神社へ

道程からすると順番が違うのですが、図を拡大していただくと街道と古墳の配置等が良くわかるので、羽曳野市の最初の1枚としました。

三太子の1つで、聖徳太子廟のある上ノ太子叡福寺に対して、中ノ太子とも呼ばれています。平安京への遷都により、竹内街道は「外交の道」としての役目を終え、平安時代の太子信仰や江戸時代の伊勢参りの人々が行き交う道へと変貌します。

街道に接する場所にあります。大型古墳ではありませんが、武器や金銀を多用した装身具など副葬品の豪華さから大王に匹敵する埋葬者が考えられています。

天保3年(1832)の建築当時の建物が現存しています。元は油商でその後、酒蔵に転じました。

日本武尊(ヤマトタケル)の墓とされます。この古墳も竹内街道と接する位置にあります。羽曳野市のゆるキャラは「タケル君」です。

縦方向が東高野街道で、奥が八尾、大阪方面です。横方向が竹内街道で、右が飛鳥方面です。

欽明天皇の時代(539~571年)に渡来系の西文氏(かわちのふみうじ)が自宅を精舎としたのが起源。真偽は不明ですが行基を描いた小説にも登場します。

役行者の錫杖跡から水が湧いたとされています。今もお地蔵さん(江戸時代)の後ろに小さな井戸があります。金剛山に至る坪井道との交差点にあり、往時は旅人の喉を潤したことでしょう。

上ノ太子のこの辺りと太子町、竹内峠を越えた辺りに旧街道の雰囲気がよく残っています

聖徳太子、妃、太子の母が合葬され、その霊廟を守るため推古天皇が僧房を置いたのが始まり。聖武天皇が七堂伽藍を整備。お堂の背後の小山が聖徳太子廟です。

古い建物が結構残っています

国登録文化財。竹内街道の景観を特徴づける茅葺大和棟民家。公開は土日祝のみ。

峠まで後1㎞ほど。上ノ太子の集落と峠との標高差は約280mです。

右の旧道の頂上が竹内峠最高所です。峠越えが困難だったので、この地の有力豪族「葛城氏」の衰退に伴い、難波から大和へは200m低い大和川沿いの道が主流となりました。

古くて立派なお宅がたくさんあります。司馬遼太郎さんの生家もあります。


松尾芭蕉は、弟子に竹内出身者がいたため何度もここを訪れました。

長尾神社から飛鳥へ

伊勢信仰の神社。ここから葛城市、大和高田市、橿原市を通って藤原宮跡まで横大路を歩きます。

この場所は竹内街道の終点、横大路の起点、難波からの長尾街道との交差点となる交通の要衝でした。

右 よしの つぼ坂 かうや 左 はせ いせ

明治時代に伊勢参りの「講」が建立したもの。横大路沿いに立派なものがいくつもあります。


この場所は下ッ道と横大路の交差点で交通の要衝でした。八木付近では今井町をはじめ、どこを歩いても古い町並みに出会えます。見学自由。




桜並木の道は西一坊大路とほぼ一致しており、海犬養門(あまのいぬかいもん)を経て、横大路と交差するのが1つ前の写真の場所です。前方は大和三山の1つ耳成(みみなし)山です。

藤原京は本格的に条里制を導入した我が国初の大型都城です。従来はもっと小規模な都城が定説とされていましたが、1990年代の道路整備に伴う発掘で平城京や平安京をしのぐ都城であったことが判明しました。奥の林の中が大極殿跡です。平城京への遷都時に柱や瓦などは再利用のため移送され、跡地は農地化されたようですが、大極殿跡だけは現在に至るまで開墾されなかったそうです。手前の朱色の柱は大極殿院南門の柱の配置を復元しています。
2026.4月 BY OKchan

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